『弟達に夢を託す』
ワカクモの産駒は生涯5頭で
父は長女オキワカ(リマンド)以外
テンポイントを含め全てコントライト
次男【ウエストポイント】75年産
西(欧州)を目指すの意で命名され
たが兄と違いトモがしっかりせず
2戦目に未勝利を脱し迎えた5戦目
「あれから1年が経ちました…
日経新春杯を迎える京都競馬場です
珍しく8Rから超満員のスタンドです
さあ直線…ここでウエストポイント
先頭に立ちます…うぁ~大歓声…
湧きにわく場内です 大歓声 …
大歓声…ウエストポイント快勝!」
しかしながら数多くのレースには使えず
16戦4勝で引退した。競走実績はないが
陣営は血筋を残すため種牡馬にと決断。
生涯28頭の産駒で競走馬として登録
出来たのは15頭であった。中央競馬での
勝鞍は1勝で その唯一の勝利を挙げた
のはバトルウェポン(83年産)である。
三男【キングスポイント】77年産
高田オーナーのもとに、この仔は
テンポイントを凌ぐ資質は有るかもと
連絡が入る。協議の結果デビュー戦
は、今までの想いを払拭するために
1979年11月11日阪神4Rを選択した。
奇しくも11頭立て11番枠の出走に
誰しも勝利を疑わなかったが…
結果は伸びあぐねて3着に終わる…
気性難も災いし小倉で未勝利を脱するが
平地競走は、この1勝にとどまる。
愚弟賢兄とまわりから揶揄されて
去勢を薦められたが高田オーナーは
首を縦にふらなかった…血筋を残したい
その想いで障害転向に陣営は向かう。
飛越試験では斜飛や飛越拒否を繰り返し
3度目にやっと合格を果たした。
がしかしレースに向かうと闘争心に燃え
気性難は相変わらずだが僅差や大差での
勝利を繰り返し無傷で5連勝とした。
飛びは高いけど、やや斜飛気味に飛越
するために幅広いジャンプがやや苦手で
微差で連続2着と苦杯を喫した。
その後4連勝で中山大障害春へ東上した。
高さを要求される、このレースは得意
中の得意で大差にて11勝目を挙げた。
陣営は迷った。本来であれば秋初戦は
阪神障害Sからだが既に2勝しているため
66.5キロ以上の負担重量になる…
因縁めいた数字の件も有り59キロで
出走できる京都大賞典を選択した。
14頭立10着の敗戦だが勝ち馬から1.2秒
しかし離されおらず次走は天皇賞に挑戦
ここでも1.2秒差の8着入賞を果たした。
その後障害オープンを楽勝し念願の12勝
目を挙げ春秋連覇を賭け中山大障害秋
に出走した。8馬身差の楽勝だった。
しかし好事魔多し膝を骨折し83年の1年
は暮れの中山オープンが初戦となり
無難に勝利し大障害秋連覇に向かう。
レースは前半から先手をとり有利な展開
だが最終障害で嫌気を出し4着に敗退する
ただ陣営には明るさがあった…84年は
フジノオー以来の欧州遠征の青写真が
用意されていたので5月の京都大障害を
最大の目標として跳びの広い飛越を中心
に稽古を続けた。京都大障害の名物直線
大生垣→大水濠→飛び上がり飛び降り台
の連続障害を確実なものとするために。
あとは東西の大障害競走をクリアする
だけとなり中山大障害春に向かった。
スタート後の第2障害の水濠を迎えた
跳びなれた障害のはずだった…
あっキングスポイントは後退していく
踏み切りが合わず古傷の右後脚を縁に
強打している…しかも連続障害だ…
しかし停まらない…ほぼ三本脚で飛越…
着地で完全に脚は粉砕している…
まだ飛越に向う姿勢に小島貞博騎手は
もう跳ばんでええ…と飛び降りた…
「ゴメンよ兄貴…フランスには行けない…
でも大丈夫だ…ちゃんと立ってるから…
あとは頼んだよ…かあさん……」
1984年4月8日 キングスポイント没
戦績34戦15勝
ほぼ同時刻に桜満開の仁川では
グレード制として初めてレース
第44回桜花賞のスタートが切られた…。
『 一 族 の 執 念 』に続く…
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